レース前にこんな言葉がありました。
しかし、私は逆神の権兵衛を、侮りすぎていた。
彼の二つ名である「逆神」という言葉、決してハッタリなどではなかった……。
「南部杯」に引き続き、
1、2番人気ワイド1点勝負でハズレ!
10月29日の競馬の結果
中央東京「天皇賞秋」…カスP 馬単1,500円的中(15点)/逆神の権兵衛 ハズレ
モリアテ教授 ワイド550円的中(5点)
1着 7番イクイノックス(1番人気)カス◎ 権◎ モリ◎
2着 6番ジャスティンパレス(6番人気)カス△
3着 4番プログノーシス(3番人気)カス▲
後ろからと思ったら道中3番手。4角入るところでもう勝ち馬は決まりました。おまけにレコード勝ち。強いとしか言いようがない。私は仕事から帰ってから録画で視たので、ルメールの天皇陛下への敬礼は写真でしか見ていないのですが、下馬はせず、松永幹夫騎手(現調教師)同様、馬上からの敬礼。デムーロの下馬して、肩膝ついての敬礼は実に格好良かったのですが、あれは実はルール違反。シチュエーションがシチュエーションだったし、競馬ファンから大絶賛だったので不問に附されましたが、おそらく出場する騎手たちはレース前、JRA職員に「できれば馬から降りないで…」と諭されていたのかも。ルメールは実に真面目な性格らしいので、素直に従ったのでしょう。
ドウデュースは、休憩時間にスマホを見たら……え?武豊じゃなくて戸崎???まあ、あのレースは戸崎だから7着、というわけでもない。ブランクの長さが影響したか。ただ、戸崎にとっては、いきなり当日、武豊に替わって天覧競馬という大舞台で勝ち負けを期待される有力馬を任されて、大敗を喫するというトラウマものの一日だったでしょう。
先日、ふたりの騎手が引退しました。ひとりは若手、もうひとりはベテラン。
若手は山田敬士。ルーキーイヤーの2018年、まさかの距離間違えという珍プレーで3カ月騎乗停止。ただ、当時の師匠であった小桧山師とともにすぐにオーナーの許に謝罪に赴き、師弟のその真摯な態度から、オーナーもそれを受け入れ、以降も山田にチャンスを与え続けました。2020年にはGⅠ(朝日杯FS)に初出場。しかし今年調教中に負傷し、現役復帰は困難だと判断した山田自身が騎手免許を返上しました。彼のような騎手は個人的に応援したい騎手なので、実に残念。
もうひとりは1986年デビューの熊沢重文。1988年・オークスのコスモドリーム(10番人気)、1991年・有馬記念のダイユウサク(13番人気)、2005年・阪神JFのテイエムプリキュア(8番人気)と、平地GⅠはどれも人気薄。障害は2012年・中山大障害のマーベラスカイザーで、これは3番人気。過去のレースでの落馬の傷が思うように回復せず、頚椎であることからも、半ばドクターストップの形で引退することになりました。でもスポーツ新聞の一問一答で、思い出の一頭は、ダイユウサクらGⅠを制した馬でもなく、一時主戦だったステイゴールドでもなく、デビュー戦で騎乗し、その後初勝利ももたらしてくれたというジュニヤーダイオーという馬だとか。40年近く前の馬。騎手にとって初騎乗、初勝利というのはそれほど大きなものなのかと思い知らされました。
熊沢の師匠の故・内藤繁春師の著書によれば、ダイユウサクの有馬記念勝利で、副賞に高級乗用車をもらってすぐ、飲酒運転で土手に転落。5メートルくらい下に落ちたそうですがケガひとつしなかったとか。しかも真夜中で滅多に車が通らない道だったにもかかわらず、そのとき偶然タクシーが通りがかり、それに乗って帰れたという―当時は今ほど飲酒運転に厳しくなかった―。この件も含めて内藤師の熊沢評は、
「騎手としても相当の運を持っていた。雨が苦手な馬に乗る日は晴天になった。落馬をしても大きなケガにはならない。もまれ弱い馬に乗れば、不思議と外枠が当たったものだ。
これらは努力して良くなるものではない。数多くいるライバルの中で、コンスタントに成績を収める理由のひとつだろう。技術的に抜きん出たものはなかったが、70点くらいはあたえられる騎手だったと思う。」
―内藤繁春「定年ジョッキー」(アールズ出版・2005年)より―
私はダイユウサクやステイゴールドの頃はまだ競馬をやっていなかったので、テイエムプリキュアということになるのですが、やはり障害重賞で恐い存在でした。
ちなみに山田騎手、熊沢騎手ともにJRAの「障碍者認定」によって労災がおりると思います。「障碍者認定」がおりると騎手としての復帰は不可能になりますが、調教助手等競馬関係者としてトレセンに残ることはできます。ただ、熊沢騎手は負傷箇所が頚椎であることから馬に乗ることも危険が伴い、助手に転身はしないそうです。